鷗外全集も読む日記

ちくま文庫版 「森鷗外全集」も読んでいく日々。

「独逸日記」 #1(pp. 7-8、1884年[明治17]10月12日)

第5巻目を読み終えて、正直だいぶ疲れてしまった。思った以上に長くかかった。

全集を読んでこのブログに記録しておくにあたっては、まあそんな大したことは言えないことは自分では解っていたが、無意識で肩に力が入っていたのかもしんない。
さらに言うなら、今日(1/18)の読書会用に読んだ三島由紀夫暁の寺』がさらに追い打ちをかけたに違いない(笑)。このタイミングで大乗仏教だの阿頼耶識とか言われてもなあ。いや、このテキストに罪はないのだけど。

そんなわけで歴史物とはちょっと離れたい気分になっているので、ここは全集第1巻からはじめるのはどうだろうかと考えている。しかし相手は文語体の〈ドイツ三部作〉である。まともに掛かったらしんどいことは解っているので、ここはひとつチェイサを用意しておきたい。
鷗外の日記「独逸日記」を手許において、「舞姫」くらいからページをめくりつつ、日記もチビリチビリとやっていくのはどうだろうか。もちろん「舞姫」自体はドイツから帰国した後で書かれていることは解っている。日記と小説を行ったり来たりするんだろうか。

ここからしばらく続く(だろう)投稿は、ちくま文庫版全集には入っていない範疇も内容だけれど、わたしのアタマの整理のために書いておく。ついでにカテゴリは便宜上「独逸日記」に設定しておく。ちなみに、鷗外は筆忠実(まめ)な性分で「独逸日記」の前後は「航西日記」(日本からヨーロッパへ)、「還東日記」(ベルリンから日本に戻る)を残しているが、このちくま文庫版にはそれらの日記は所収されていない。
日記の引用は現代仮名遣いに適宜しておく。またこの日記当時は鷗外というペンネームはなかったが、面倒なので鷗外で統一する。

「独逸日記」(もともとは「在徳記」というタイトルだったらしい)は、1884年(明治17)10月12日から書きはじめられた。鷗外はこの年22歳。
同年8月24日に日本を発って10月7日にマルセイユ到着。10月9日にはパリへ着いて滞在時間30時間ほどでせわしくドイツへと出立、ケルンを経て、11日20時半に最終目的地ベルリンに到着した。

翌10月12日。
旅装を慌ただしく解いて、1級下の後輩・佐藤三吉に連れられて、軍医監(大佐相当)の橋本綱常(はしもと つなつね)の「旅店」(=ホテル)を訪ねている。橋本は《カルヽスプラツツ Karlsplatz》(=カールスプラッツ)にある《Töpfer's Hotel》に宿泊していた。橋本綱常についてはいったんここでは鷗外のボスとだけしておく。

彼に拝謁すると、いきなり

橋本氏手をうち振りて、頭地を搶(つ)くようなる礼をはせぬものぞと、先(ま)ず戒められぬ。

「頭を地面につくような礼をしてはいけない」と早々に戒めらしたがその理由はその時には鷗外には解らなかったのか、続けてその理由を追記している。

「ヨーロッパでは、教育を受けた良家の少年は舞踏の先生に従って、立ち居振る舞いの一挙手一投足を丁寧に教え込まれるらしい。橋本氏は長いことこのヨーロッパに滞在していて、この地の正しい作法を行う人とのみ交流しているので、日本式の粗野な態度をドイツで見てしまうと可笑さに堪えるのが難しいのだろう」

そんなところだろうか。後日談として日記に書いているが、日記文中の《後に人々に聞けば》というところが、この「独逸日記」が後から書き加えられたものであるということを示している。

そして橋本綱常は、鷗外を連れて日本公使館に向かったが、公使である青木周蔵はあいにく不在。次に《カイゼルホオフ Kaiserhof》ホテル(=ホテル・カイザーホーフ)に滞在中の大山巌陸軍卿のもとへ赴いたが、ここも不在。

仕方なくホテルに戻って昼食を摂ろうということになった。
その席で橋本は鷗外にこう告げる。

「政府が君に託していることは、まず衛生学を修めること、次に《独逸の陸軍衛生部の事》を調査すること、この二つだ。
しかし、制度全般を調査するのは《既に隻眼を具(そな)うるもの》(優れた見識者)でなければ出来ない。
わたしは今、陸軍卿大山巌のこと:引用者註)随行して国々を歴訪しているが、ひとつの場所に滞在する時間はわずかだが、見て得るところは少しはあると思っている(え、自分は《既に隻眼を具うるもの》だと暗に言っているのかしらね:引用者ボソリ)。また詳細にドイツの制度だけを調査するのには、別に本国より派出すべき人を予定している」

といきなり言うと、

「なので、君はただ衛生学を修めることに一意専心を持ちなさい。もし本国より制度上のことで質問があれぱ、一等軍医の《キヨルチング Koerting》(ケルティング)さんに照会し相談して回答すればよろしい」

と言い渡されている。

ベルリンに到着して早々に、ボス橋本にお辞儀の仕方で注意喚起され、ランチの際には君にはドイツの制度を調べる眼識がないから、まずは衛生学を修得しなさいと命令変更されたわけだ。

中井義幸『鷗外留学始末』(岩波人文書セレクション)によれば、もともと鷗外の留学目的は、1883(明治16)年度に「陸軍衛生制度取調べ」として申請され、彼もそれを望んでいたところだった。しかし1884年(明治17)2月に橋本が大山陸軍卿随行団に随行して、その制度調査を行っていた。そのために鷗外の留学出発時には、その目的が「軍陣衛生学の研究」に変更されていたという。